画:大竹直子さん
「私達、平本あきおとピークパフォーマンスのメンバー達の人間観」
大昔の寓話です。大昔の寓話で、まだ人が植物としゃべれていた頃の話です。これは寓話なんで事実ではないですよ。
さて、その頃にある王国の王様が、庭にいろんな草木の種を植えました。


そして、育って花開くのを楽しみにしながら、事情があって、何ヶ月か王国を離れる必要がありました。
王国を離れて長い旅から帰ってきて、楽しみに自分の庭に行きます。
なんと、草木が全部枯れているではありませんか!
人がまだ草木としゃべれます。王様は樫の木に聞きました。
「樫の木さん、樫の木さん、あなたはどうして枯れてるの? 」
すると樫の木は答えます。
「自分はぶどうの木のように、おいしい実をならせることができない。だから、こんな役に立たない木は生きている価値がない」
と言って、おいおい泣いています。


それではぶどうの木はというと、ぶどうの木も枯れています。
「ぶどうの木さん、ぶどうの木さん、あなたはおいしい実をならせることができるのに、どうして枯れてるの?」
と王様が尋ねます。ぶどうの木が答えます。
「わたしはバラの木のようにきれいな花を咲かせることができないから、美しくないわたしは生きている価値がない」
と、元気のない声で言います。
それではバラの木はどうだろう。王様は歩いて行ってみます。なんとバラの木も枯れています。
「あなたはきれいな花を咲かすことができるのに、どうして枯れてるの? 」
王様が尋ねるとバラの木は、答えます。
「わたしは樫の木のように高い木ではないから、そんなチビは生きてる必要がない」
バラの木が、しおれた声で返してきます。

樫の木もぶどうの木もバラの木も、他の木と比べて、自分がどれたけ劣っているかばかりを比べることで、枯れてしまいました。
王様は悲しい気持ちで歩いていきました。すると目の前の足元に、三色すみれ(パンジー)が咲いてきます。目をやると、いきいきときれいに三色すみれが咲いているではありませんか。

「他の木たちは枯れているのに、どうしてあなただけそんなにきれいに咲いてるの?」
と王様が聞きます。三色すみれは次のように答えました。
「えっ? 王様はここに三色すみれがほしかったから、三色すみれの種を植えたんじゃないですか? もしきれいな木がほしかったらバラの木を、高い木がほしかったら樫の木、実がほしかったらブドウの実を植えていらっしゃったと思います。きっと王様はここに三色すみれがほしいんだと思って、じゃあきれいな三色すみれを咲かそうと思って精一杯咲かせています。」
これでお話はおしまい。
人間は完全だから、コーチングなど何もする必要がなく、放っておいてもよくなっていくのか。
それとも人間は不完全でダメなところがあるからコーチングなどで手を加えて直していかなきゃダメな存在なのか。
実は人間は、完全でもあり、不完全でもある。
この寓話の王様は、誰か特定の人間でもなく、ましてやあなたの会社の社長や会社でもない。
もちろんどこかの国家の王様を意味するわけでもない。
宇宙といってもいいし、世界といってもいいし、この世の中といってもいいし、もっと大きい意味、存在。
この世の中で一人一人の人間は、「その人自体が必要だから生まれてきた」
そういう意味では完全です。種として、芽として、花として・・・どの瞬間も完全です。
そして、自分が何の木なのかを知ることが「自分らしさ」。自分とは何者かを知りましょう。
では「自分らしさ」さえ見つければそのままでいいか。
そうではありません。
「自分らしさ」を見つけて、そこに自分にあった分量の水をやり、太陽の日差しを照り、栄養をあげてどんどん育てて、その人らしい花を満開に咲かせる。
自分らしい花があなたの「ありたい姿」。
本当はどんなふうに、どんな花が咲く花なのか。
その花を咲かせるのが、その人その人の「ありたい姿」。
つまり「ありたい姿」は、「他の人と比べて、あの人みたいになりたい」ではなくて、「自分は何の花を咲かせる木なんだろうか」と自分の花を咲かせた状態。

まだ、精一杯あなたらしい花を咲かせていないとき、人は不完全。
「自分らしさ」を知り、そこに栄養を与えることで、自分らしい花を咲かせる。つまり「ありたい姿」をみつける。
「自分らしさ」をみつけて、「ありたい姿」に向かって、精一杯あなたらしい花を咲かせてほしい。
ピークパフォーマンスでは、そんな人間観のもとで、さまざまなセミナーや個人セッションを提供しています。
